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悪ということ [正信偈と現代(その141)]

(3)悪ということ

 龍樹・天親・曇鸞にはあまり悪の影が感じられませんが、道綽から善導への流れにおいて悪というものが前面に出てきます。
 翻って考えてみますと、そもそも釈迦は悪から出発しています。『スッタニパータ』など原始仏典を読みますと、「わがものへのとらわれ」がいたるところに出てきます。「わがものであると執着して動揺している人々を見よ。ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」(『スッタニパータ』777)、「人々は“わがものである”と執着した物のために悲しむ。所有しているものは常住ではないからである」(同805)などに明らかなように、「わがものへのとらわれ」がわれらの苦しみの元であると説いているのです。この「わがものへのとらわれ」こそあらゆる悪の原型ではないでしょうか。「わがものへのとらわれ」から貪欲・瞋恚・愚痴の三毒が生まれ、そしてさまざまな悪(五悪・十悪)が生じてくるのですから。
 このように釈迦はわれらの苦しみの元であり悪の根源である「わがものへのとらわれ」をいかにして乗りこえるかという実践的な課題に終始したと言えますが、釈迦のことばが整理されていくなかで、「無我」・「縁起」・「無常」といったことばで世界の真理が語られるようになっていきます。そして、「わがものへのとらわれ」から脱却するためには、「われという固定的な実体はない」、「すべては因と縁と果の関係にすぎない」、「何ひとつとして変化しないものはない」という真理をつかみ取らなければならないというように、実践的な課題から理論的な課題へとその重心を移していくのです。かくして無我や縁起、無常といった真理をいかにつかみ取るかということが焦点となってきて、いきおい我執や煩悩そして悪の影が薄くなっていくのです。
 その意味では道綽や善導は仏教の原点に立ち返ったと言えます。

タグ:親鸞を読む
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