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生死の迷いとは [正信偈と現代(その143)]

(5)生死の迷いとは

 では「ただ浄土の一門のみありて通入すべき路」であるというのはどうしてか。末法の五濁悪世において、聖道門的な語りは耳に通らないが、浄土門的な語りならこころに届くというのはどういうことでしょう。ここであらためて聖道門的な語りと浄土門的な語りの違いを確認しておきましょう。前者は「こちらから真理をつかみ取るべし」と語るのに対して、後者は気がついたら「向こうから真理につかみ取られていた」と語るのでした。それが自力と他力というコントラストです。
 聖道門的な語りが「生死すなはち涅槃なりということをみずからつかみ取るべし」であるとしますと、浄土門的な語りは「なんじのいのち(生死)はそのままで如来のいのち(涅槃)なのだ、とよびかける声が聞こえる」というものです。どちらも伝えようとする真理はひとつ「生死即涅槃」です。ただそれをみずからつかみ取れと語るか、あるいは向こうからよびかけられ、気づかされると語るかの違いです。龍樹なら、どちらでもいいと言うでしょう、いずれにせよ同じところに出るのだから、と。しかし道綽は、もはやみずからつかみ取るのは不可能だと言うのです、「当今は末法、現にこれ五濁悪世」だから、と。
 生死即涅槃の「生死」に注目しましょう。
 それはひとつには「生老病死」を約めていると見ることができます。生死の迷いのなかにあるとは、われらは生まれては老い、やがて病をえて死んでいくということを繰り返しているということだと。生死無常と言うときはこの意味でしょう。そして仏教はこの生死無常の空しさからいかにして脱却するかを説くと言われる。これがごく一般的な仏教観として通用しています。これが間違いだとは言いませんが、しかしここにとどまっていては「生死即涅槃」のもう一段深い意味は伝わりませんし、親鸞浄土教のダイナミズムも了解することができません。

タグ:親鸞を読む
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