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約時被機(教えと時機) [正信偈と現代(その145)]

(7)約時被機(教えと時機)

 ぼくが高校生のころ『歎異抄』に出会って感じたのはそういうことでした。冒頭の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」ということばはまったく理解を超えたもので、まるで宇宙人が語るのを聞くような感じでしたが、でも荒唐無稽とは思わなかった。いまのぼくには理解できないことだけれども、何かきっと意味のあることを言っているに違いないと思えたのです。だからもっと読んでみようという気になり、第2章、第3章へと進むにつれて、言っていることは依然として分からないが、「ここには何かがある」、「きっとこの人は真実を語っている」と確信したのです。
 このように、浄土門的な語りに、「そんなばかなことがあるはずがない」と思うか、それとも、「自分にはよく分からないが、何かあるに違いない」と感じるかは、そのときその人がおかれた状況によるでしょう。
 道綽は『安楽集』の冒頭でこう言います、「時に約し機に被らしめて(約時被機)勧めて浄土に帰せしむとは、もし教、時機に赴けば、修しやすく悟りやすし。もし機と教と時とそむけば、修しがたく入りがたし(その時期とその人の資質を考えて浄土の教えを勧めるといいますのは、時期と資質とに合致していれば修行しやすく理解しやすいということです。逆に資質と教えと時期とがあいませんと、修行しにくく理解も得にくいと言わなければなりません)」と。そしてそれをこんな譬えで説明しています。「うるほへる木をきりて、もて火をもとめんに火うべからず。時にあらざるがゆへに。もしかれたるたきぎをおりて、もて水をもとめんに水うべからず」と。聖道門的な語りはもはや時と機に背いているが、浄土門的な語りは時と機に合っていると言うのです。
 火宅無常の世界に生きている末法の世の人たちだからこそ、浄土門的な語りに、「これは何だろう、よく分からないが何かありそうだ」と感じるということでしょう。

タグ:親鸞を読む
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