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専称を勧む [正信偈と現代(その146)]

(8)専称を勧む

 そこで「万善の自力、勤修を貶す」となります。難しい経典を読み論釈を学ぶことで、みずから真理をつかみ取ろうとしても、もはや不可能となったのであり、ただ浄土論的な語りに耳を傾けるしかないということです。さてしかし、それがどうして「円満の徳号、専称を勧む」ということになるのでしょう。自力から他力へというのは、こちらから真理をつかみ取ろうとするのではなく、向こうからやってくる声を聞かせてもらうということでした。それがどうして「専ら名号を称える」ことになるのか、これはにわかに了解できることではありません。
 もし「専ら名号を称える」というのが、浄土へ往生するために念仏しなければならないということでしたら、悟りを得るために自力で行を修めるのと何も変わらなくなります。それでは「他力とは如来の本願力なり」(「行巻」)という親鸞の他力理解が根本から崩れてしまいます。そもそも南無阿弥陀仏という名号は、こちらから称えるより前に、向こうから聞こえてくるものであるというのが念仏の教えです。本願成就文の「その名号を聞きて、信心歓喜すること、ないし一念せん」とは、向こうから聞こえてくる名号に、こころが澄みわたるということです。「なんじのいのちは、そのままで如来のいのちである」というよびかけの声が聞こえてきて、こころは喜びにあふれる、それが名号が聞こえるということに他なりません。
 では「円満の徳号、専称を勧む」をどう理解すればいいのでしょう。あの『歎異抄』第1章のことば「往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつ」が手がかりになります。「念仏まうさんとおもひたつ」ときには、すでに「往生をばとぐるなりと信じて」いるのです。そして「往生をばとぐるなりと信じる」のは、「なんじのいのちは、そのままで如来のいのちである」というよびかけの声が聞こえて、こころが澄みわたり喜びにあふれているからです。このように見てきますと、「円満の徳号、専称を勧む」というのは、やみくもに念仏しなさいということではなく、弥陀のよびかけの声が聞こえれば、おのずと「念仏まうさんとおもいたつ」のです、と言っているに違いありません。

                (第16回 完)

タグ:親鸞を読む
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