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偈文17 [正信偈と現代(その147)]

           第17回 道綽-一生悪を造れども

(1)偈文17

 三不三信誨慇懃(さんぷさんしんけおんごん)     三不三信の誨(おしえ)、慇懃にして、
 像末法滅同悲引(ぞうまつほうめつどうひいん)    像末・法滅、同じく悲引す。
 一生造悪値弘誓(いっしょうぞうあくちぐぜい)    一生悪を造れども、弘誓に値(もうあ)いぬれば、
 至安養界証妙果(しあんようかいしょうみょうか) 安養界に至りて、妙果を証せしむ。

 (現代語訳) 道綽禅師は三不三信の教えをねんごろに教えてくださり、浄土の教えは正法・像法・末法・法滅の衆生を同じように導くことを明らかにしてくださいました。また、われらは一生涯悪をつくり続けても、本願に遇うことができさえすれば、浄土に往生して仏の悟りを得ることができると教えてくださるのです。

 前回の最後に「円満の徳号、専称を勧む」とあったのにつづいて「三不三信の誨、慇懃にして」ときます。この「三不三信の誨」というのは、道綽がはじめて説いたのではなく、曇鸞が『論註』で述べているのを『安楽集』に引用しているのです。まずこうあります、「かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と。名号を称えることは、取りも直さず、無明を破ることであり、また往生の願いをかなえることだと言います。
 ところが「名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるもの」があるが、それはどうしてかと言うと、「如実に修行せず、名義(みょうぎ)と相応せざるによるがゆゑ」であると述べます。名号を称えても無明がのこり往生もかなわないのは、真実の教えに相応していないからだと。ではどのように相応していないかと言うと、「三種の不相応あり、一には信心淳(あつ)からず、存するがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定(けつじょう)なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑなり」と説くのです。信心が不淳・不一・不相続であるのが三不信で、その反対の淳心・一心・相続心が三信です。これをあわせて三不三信とよびます。

タグ:親鸞を読む
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