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三不信と三信 [正信偈と現代(その148)]

(2)三不信と三信

 「専称を勧む」とは言っても、ただ口に南無阿弥陀仏と称えるのではなく、そこに信心がなければなりませんが、さてその信心が問題です。われらの信心はえてして「存するがごとく亡ずるがごとき」ものであり、「決定(けつじょう)なき」もの、また「相続せず、余念間(へだ)つる」ものだというのです。要するに、ふらふらしてさだまらないということでしょう。あるときはこうだろうと信じる、ところが少しすると、いやそうじゃない、ああだろうと信じる、というように一向にぴしっと決まらない。
 『無量寿経』の最後の方に、弥勒菩薩が釈迦に質問するところがあります、「世尊よ、なんの因、なんの縁あってか、かの国の人民、胎生と化生とある」と。往生といっても、直ちに仏にまみえることができる場合(化生)と、母胎のなかにあるように仏にまみえることができない場合(胎生)とがあるのはどうしてでしょう、というのです。それに対して釈迦はこう答えます、胎生となるのは「なお罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願う」からであると。罪福を信じるといいますのは、「善をなせばいい果がえられ、悪をなせば悪い果を招く(善因楽果、悪因苦果)」と信じることです。
 われらが何かを信じるというのは、これをすることが善であると信じ、あれをなすことは悪であると信じることです。そのときわれらは、何が善であり、何が悪であるかを知っていると思っています。しかしほんとうにそうか。親鸞はこう言っていました、「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』後序)と。
 われらは、やれ、これは善だ、これは悪だ、と騒いでいるが、ほんとうに善悪を知っているのか、というこのことばに真実を感じない人がいるでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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