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至心信楽 [正信偈と現代(その149)]

(3)至心信楽

 スピノザは善悪についてこう言います、「われわれはあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである」(『エチカ』第3部)と。このことばにも有無をいわさぬ真実があります。われらはあるとき、その理由を知ることもなく、あることに衝動を感じ欲望するがゆえにそれを善と判断し、ところがあるとき、同じくその理由を知ることなく、別のあることに衝動を感じ欲望するがゆえにそれを善と判断する。としますと、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」と言わざるをえません。われらの信心が不淳・不一・不相続の三不信とならざるをえないのは、それが「罪福の信」であるからです。
 では淳心・一心・相続心の三信とは何か、そんなものがどこにあるのか。あるのです、それが第18願の信です。
 罪福の信というのは第19願の信で、親鸞はこの願を「修諸功徳(しゅしょくどく)の願」とよんでいますように「もろもろの功徳(つまり善です)を修め」て往生を願えば臨終のときに来迎にあずかるというのです。しかし第18願は「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」とよばれ、「至心に信楽」することがそのまま往生することだといいます。それは成就文に「その名号を聞きて、信心歓喜せん、…すなはち往生をえ、不退転に住す」とあることからよりはっきりします。本願の「信楽」も成就文の「信心歓喜」ももとは同じ「プラサーダ」で「濁っていた心がさあーっと澄む」というのが原義ですから、浄信と訳されることもあります。この信は、こちらから罪福(善悪)を信じるというのではなく、向こうから名号が聞こえてくることで心がおのずと澄み渡るという意味の信です。
 こちらから罪福を信じるのは不淳・不一・不相続の三不信となりますが、おのずから心が澄みわたり喜びがわきあがるのは淳心・一心・相続心の三信です。

タグ:親鸞を読む
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