SSブログ
正信偈と現代(その150) ブログトップ

真理にゲットされる [正信偈と現代(その150)]

(4)真理にゲットされる

 さて次に「像末・法滅、同じく悲引す」ときます。字数の関係で「像末・法滅」とだけ書かれていますが、意味からして正法も入るのは明らかで、正・像・末法、そして法滅を問わず、本願念仏の教えはすべての人を導いてくれるということです。うっかり、正法・像法においては聖道門、末法・法滅においては浄土門としてしまいがちだけれども、そうではないということ。末法・法滅となると聖道門は通用しなくなるが、浄土門はすべての時期において通用すると言っているのです。
 これは何を意味するかと言いますと、浄土門は正法・像法の時代には聖道門の陰になってみえなかったけれども(実際、浄土経典があらわれてくるのは釈迦入滅の数百年後、大乗仏教の興隆の時期です)、しかし隠れていただけで、ちゃんとあったということです。もっと言えば、聖道門もその本質をつきつめれば浄土門にいきつくことが明らかになるということです。ここでもういちど確認しておきましょう。聖道門と浄土門といっても、仏教に二つの真理があるのではなく、一つの真理について聖道門的な語りと浄土門的な語りがあるだけです。
 聖道門的な語りとは論理的な語りであるのに対して、浄土門的な語りとは物語的な語りでした。そして論理的な語りは「こちらから真理をつかみ取る」というスタイルをとるのに対して、物語的な語りは「向こうから真理がやってくる」というスタイルで語られます。いいかえれば前者は「真理をゲットする」のに対して、後者は「真理にゲットされる」ということ。聖道門では、「生死即涅槃」という真理を論理の力でみずからグイとつかみ取るとされますが、浄土門では、あるとき「わがいのち(生死)は、そのまま如来のいのち(涅槃)である」という真理にふと気づかされると言います。さて、真理をみずからグイとつかみ取ったつもりでいて、実のところは、真理にグイとつかみ取られていたのではないか。
 これが「像末・法滅、同じく悲引す」の真意です。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その150) ブログトップ