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往生はいつ [正信偈と現代(その154)]

(8)往生はいつ

 さて、最後の一句に、弘誓に遇うことができましたら「安養界に至りて、妙果を証せしむ」とあります。「安養界に至りて」とは往生するということ、「妙果を証せしむ」とは成仏するということですから、信心をえたら往生し成仏することができるということですが、問題は信心と往生と成仏の時間的関係です。信心をえるのは今生でも、往生と成仏は来生のこととするのが伝統的浄土教の常識でしょう。今生のいのちが終わった後に浄土に往生し、そして成仏する、というこの常識は『観無量寿経』からかたちづくられてきたと言えます。
 『観無量寿経』はその前半に定善、すなわち心を統一して浄土と仏をみる方法を説き、後半に散善、すなわち心が乱れたままになす善が説かれるのですが、それが上品上生から下品下生までの九種あるとされます。それに応じて九種の往生があるのですが、その往生がいのち終わる時であることは共通しています。阿弥陀仏をはじめ、観音・勢至や無数の聖衆(しょうじゅ)の来迎のありようがさまざまであっても、それが「いのち終わるときに臨んで」であることはみな同じです。ここから「臨終の往生」、「臨終の来迎」という浄土教の常識がかたちづくられてきました。
 こうして、いのち終わった後に往生するというのはもう当たり前のこととして流布してきたのですが、その流れに疑問を呈したのが親鸞です。まず、親鸞は中国浄土教でもっとも重んじられてきた『観無量寿経』に対して『無量寿経』を第一としました。「教巻」において「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と言い、「化身土巻」で『観無量寿経』及び『阿弥陀経』を方便の経であると位置づけたのです。そして『観経』も『小経』も臨終の往生を説くのみですが、『大経』はといいますと、かならずしも往生は臨終とは説いていません。

タグ:親鸞を読む
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