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信心のさだまるとき往生またさだまる [正信偈と現代(その155)]

(9)信心のさだまるとき往生またさだまる

 『大経』において、はっきりと臨終の往生を説くのは、第19願においてと、いわゆる三輩段とよばれる箇所(第19願の成就文と解釈されます)だけです。第19願には「寿終のときにのぞんで」とあり、また三輩段においても、上輩・中輩・下輩のいづれも「いのち終わるときにのぞんで」ということばがつかわれ、往生は臨終においてであると説きますが、そこだけと言うこともできます。他の箇所に往生(あるいは来生)ということばが出てくる際は、それが臨終であるとは書いてないのです。そのことをどうとるか、他の箇所も第19願や三輩段と同じように臨終においてと読むべきか、それとも第19願と三輩段だけは例外と受け取るべきか、ここが分かれ道となります。
 親鸞は決然と後者をとります。第19願と三輩段は『観経』や『小経』と同じように方便の教えと解釈するのです。
 親鸞が注目するのが第18願成就文です。「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」。この「すなはち往生をう(即得往生)」について親鸞みずからこう注釈してくれます、「即得往生といふは、即は、すなわちといふ、ときをへず、日おもへだてぬなり。…真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまはざるなり。摂は、おさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。おさめとりたまふとき、すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、往生をうとはのたまへるなり」(『一念多念文意』)と。
 これをさらにこう言います、「真実信心の行者は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第1通)。信心をえた、そのときに往生する、ということをこれ以上に明瞭に言うことができるでしょうか。

                (第17回 完)

タグ:親鸞を読む
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