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偈文18 [正信偈と現代(その156)]

            第18回 善導-光明と名号

(1)偈文18

 善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)  善導ひとり仏の正意を明かせり。
 矜哀定散与逆悪(こうあいじょうさんよぎゃくあく)  定散と逆悪とを矜哀して、
 光明名号顕因縁(こうみょうみょうごうけんいんねん) 光明・名号、因縁を顕わす。
 
 (現代語訳) 善導大師はただ一人、『観無量寿経』にあらされた釈迦如来の真意を明かしてくれました。すなわち弥陀如来は、定善・散善を行う善人も、十悪・五逆を行う悪人もひとしく哀れんでくださり、浄土往生のために光明という縁と名号という因とを与えてくださったということを明らかにしてくれたのです。

 曇鸞から道綽へ、そして道綽から善導へと中国浄土教の歴史が作られていきますが、しかしそれとは別の流れもありました。海をこえて日本浄土教の基となったのがこの曇鸞・道綽・善導の流れですから、それしかなかったような印象を与えてしまいますが、中国浄土教の祖とされるのは曇鸞より100年ほど前の廬山(ろざん)の慧遠(えおん)で、この廬山流念仏がむしろ中国浄土教の主流であったと言わなければなりません(曇鸞・道綽・善導の流れは北朝のもとでかたちづくられましたが、こちらは南朝の伝統となります)。「善導ひとり仏の正意を明かせり」ということばはそういう背景のもとで理解しなければなりません。
 慧遠の念仏はもっとも初期の浄土経典である『般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)』に基づき、般舟三昧により十方の諸仏を目の当たりに見るというものです(般舟三昧とは「諸仏現前三昧」の意味)。念仏とは南無阿弥陀仏を称えることであるよりも、阿弥陀仏をこころに念じて眼前にあるかのようにまざまざと見るという意味をもっていたのです。『観無量寿経』もまたそのように理解され、経の名にあらわれているごとく、浄土と仏を観ることを説くものであり、前半の定善13観(日想観、水想観からはじまり、浄土、そして阿弥陀仏と聖衆たちを観る方法)にその中心があるとされます。
 ところが善導はその見方を根本からひっくり返すのです。「善導ひとり仏の正意を明かせり」と言われる所以です。

タグ:親鸞を読む
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