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古今楷定(ここんかいじょう) [正信偈と現代(その157)]

(2)古今楷定(ここんかいじょう)

 ではどうひっくり返したのか。先に少し触れましたように、『観経』の前半の13観はこころを統一して(禅定に入り)浄土と仏を観る「定善」ですが、後半3観においてはこころが乱れたまま、さまざまな善をなす「散善」が説かれ、それが上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九品に分けられます。そして上品から中品へと次第にその資質が下がり、下品になりますと「もろもろの悪を造る」こととなります。とりわけ下品下生は「五逆・十悪を作る」ようになりますが(五逆とは殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧、十悪は殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴)、そんな極悪人も救いから見放されることなく、十回「南無阿弥陀仏」を称えればその罪が消され、命終わるときに往生できると説かれます。
 この部分をどうとらえるかが問題となるのですが、先ほど言いましたように、伝統的には、前半13観が『観経』の眼目であり、後半の九品往生、とりわけ下品往生は愚かで罪深い凡夫をも仏道につなぎとめるための方便として説かれたにすぎないというように解釈されてきました。ところが善導はむしろ下品往生にこそ『観経』を説いた釈迦の狙いがあるのだと主張したのです。浄土・仏を観察することではなく、南無阿弥陀仏を称えることに浄土教の眼目があるのだと言うのです。これを善導自身が「古今楷定(これまでの『観経』の見方を一変して正しい見方を定めた)」と述べています。
 しかしどうしてそんなことが言えるのか。善導はいろいろな根拠を上げますが、何よりも『観経』の流通分(るずうぶん、その経の教えを弘めることを勧める結論部)において釈迦が阿難に告げることばに注目します、「汝よ、好(よ)くこの語を持(たも)て。この語を持てとは、すなわちこれ、無量寿仏の名(みな)を持てとなり」と。『観経』の結論部において、釈迦が無量寿仏の名を称えることを忘れるな、と説いていることこそ、この経の本質が仏・浄土の観察にあるのではなく、名号を称えることにあることを示しているではないかと言うのです。

タグ:親鸞を読む
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