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宿業の自覚 [正信偈と現代(その159)]

(4)宿業の自覚

 ですから、こういうことになります。世に聖人と凡夫の区別があるのではなく、宿業の自覚がないゆえにもとから聖人と凡夫の区別があると思っている人と、宿業を自覚しているがゆえに聖人と凡夫の区別はないと思っている人の違いがあるだけです。大事なのは宿業の自覚で、それがある人には聖人と凡夫の区別はありませんが、それがない人は聖人と凡夫の区別があると思っています。
 宿業の自覚というのは縁起の自覚に他なりません。
 ものごとはすべて因と縁とによって定まるというのが縁起の法ですから、人が何をなすかはそのときどきの因と縁とによります。そしてそこにどのような因と縁があるかは知る由もありませんから、そのときどきの状況によって何をなすかは分かったものではありません。これが宿業の感覚です。親鸞は言います、「なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」と。
 このことばは重く胸に響きますが、その一方でそれに強く抗う声も聞こえてきます、「しかし、われらの自由はどうなるのだ」と。
 確かにわれらが何かをなすとき、無意識でもない限り、そうしようと思ってしています。無理やり何かをやらされている場合でも、「嫌だけど仕方がない」と思ってしています。ほんとうに嫌ならしなければいいのですから。ほんとうに嫌だけど、しなければならないこともある、と言われるかもしれませんが、そんなときも、「ほんとうに嫌だけど、しなければならないのだ」と思ってしているのであって、とどのつまり、そうしようと思ってしているのです。その意味でわれらは自由であって、何かに操られている人形ではありません。
 とすると宿業とは何か。

タグ:親鸞を読む
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