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宿業と本願 [正信偈と現代(その161)]

(6)宿業と本願

 世に聖者(善人)と凡夫(悪人)がいるのは確かですが、ある人はたまたま聖者となり、またある人はたまたま凡夫となっているだけのことで、あるときどんな因縁がはたらいて聖者がとんでもない悪を犯したり、逆に、凡夫がびっくりするような善をすることになるか分かったものではありません。聖者も凡夫も同じように宿業のなかで必死に「生きんかな」としているのです。スピノザ流に言いますと「自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」ことにおいて何の違いもありません。
 これが宿業のなかにいるということで、問題はそれに気づくかどうかです。
 闇のなかに居ることに気づくには光に遇うことが必要です。これまでも繰り返し述べてきたことですが、光に遇うという経験は二重の経験で、ひとつはそのまま光に遇うということですが、もう一つが闇に遇うということです。光に遇うことで、はじめて闇のなかに居ることに気づくのです。光に遇うことがなければ闇に遇うこともありません。闇のなかに居ながら、闇のなかに居るなどとはつゆ思わず、これが世界だと思っています。
 同じように、宿業のなかに居ることに気づくには本願に遇うことが必要です。
 本願に遇うことで、はじめて宿業のなかに居ることに気づくのです。本願に遇うことがなければ、宿業のなかに居るなどと思うこともなく、生きることに何の後ろめたさも感じていません。宿業というのは生きることの後ろめたさのことです。よく似たことばに宿命がありますが、こちらは「すべては起こるべくして起こる」という感覚で、そこに後ろめたさなどはありません。イスラム教徒のウエイターが自分の不注意で運んでいた皿を割ったのに、「この皿はアッラーの摂理により、いま、ここで割れることになっていたのだ」と言うとしますと、彼は宿命を感じているでしょうが、宿業を感じているのではありません。

タグ:親鸞を読む
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