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光明と名号 [正信偈と現代(その162)]

(7)光明と名号

 本願に遇うことで、はじめて宿業に遇うと言いましたが、どうして本願に遇うと宿業に遇い、生きることに後ろめたさを感じるのでしょう。
 宿業の催しとはスピノザのことばを借りれば「自己の有に固執しようと努める努力(コナトゥス)」のことでした。どんなことがあっても生き延びようとする衝動。それに対して本願とは「一切衆生の有に固執しよう」とする願いと言えるでしょう。みんなを安らかに生かしてあげたいという願い。この本願に出遇ったからこそ、自分が何としても生き延びようとしていることに後ろめたさを感じるのです。
 しかしそれを裏返して言えば、宿業のなかに居ることに気づいたということは、すでに本願に出遇っているということです。「生きんかな」としている自分に後ろめたさを感じているということは、「生かしめんかな」という願いに気づいていることに他なりません。「こんな自分は救われない」という思いと「こんな自分のままで救われている」という思いがひとつであるという不思議。
 さて善導は本願に遇うことには光明と名号という因縁があることを明らかにしてくれたと詠うのが「光明・名号、因縁を顕わす」という句です。
 光明と名号、因と縁というこの並べ方からしますと、光明が因で、名号が縁かなと思ってしまいますが、『教行信証』「行巻」には「まことにしんぬ、徳号(名号のこと)の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」とありますから、名号が因で光明が縁と言うべきでしょうか。この二つのなかで、光明はもういいでしょう。本願の光明に照らされ包まれることは、『観経』の「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨(光明は十方世界をあまねく照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず)」ということばからそのイメージがくっきりと浮かび上がります。
 問題は名号です。名号が「能生の因」であるとはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
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