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第17願 [正信偈と現代(その163)]

(8)第17願

 名号が往生の因であるということを、どう理解すればいいでしょうか。
 まず、われらが名号を称えること(称名念仏)が因となって、往生という果がえられるのでないことはもう言うまでもないでしょう。それではあからさまに「自力の念仏」となりますから。そこで、われらが名号を称えるには違いないが、われらが称えることが因となるのではなく、名号そのものに往生の因があるという理解が生まれてきます。しかし、南無阿弥陀仏ということばそのものに力が宿っているというこの理解にはどこか神秘的な雰囲気が漂っています。日本古来の言霊信仰の気配というか、あるいは真言宗のマントラ(呪)と同じ匂いがするのです。
 親鸞はこのような神秘的あるいは観念的な解釈はとりません。ではどのように理解するかと言いますと、17願に注目するのです(「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)してわが名を称せずといはば正覚をとらじ」)。法然は18願にだけ着目し、17願に言及することはありませんでしたが、親鸞は18願とともに17願に重要な意味があると見ます。そもそも初期の無量寿経においてはこの二つの願は一体化されていました(現存の漢訳無量寿経は5種類あります。漢訳・呉訳・魏訳・唐訳・宋訳の五つで、漢訳と呉訳が古い形を保存していますが、そこでは本願は24しかありません)。
 たとえば『平等覚経』(これが漢訳です)には「われ作仏せんとき、わが名をして八方上下無数(むしゅ)の仏国にきかしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳国土の善を嘆ぜん。諸天人民蠕動(ねんどう、虫のこと)のたぐひ、わが名字をききて、みなことごとく踊躍(ゆやく)せんもの、わがくにに来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ」とあり、前半が後期無量寿経の17願、後半が18願にあたることが分かります。このようにもともと一つであったものが、後に二つに分けられたのであろうと推測できます。

タグ:親鸞を読む
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