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名号が聞こえる [正信偈と現代(その164)]

(9)名号が聞こえる

 親鸞は「行巻」の巻頭に魏訳の『仏説無量寿経』(普通に無量寿経というときにはこれを指します)からその17願を引用するだけでなく、(唐訳の『如来会』と)呉訳の『大阿弥陀経』そして漢訳の『平等覚経』からそれに当たる願を引用しています。わざわざ初期大経の呉訳と漢訳を引用していますのは、魏訳の17願だけでは、その意味するところが伝わりにくいと考えてのことに違いありません。もともと一体であったものが17願と18願に分かれたのですから、17願だけをポンと出されても、それがどういう趣旨かが理解しにくいのです。
 先に上げました『平等覚経』の願文を読みますと、どうして諸仏が弥陀を讃えてその名号を称えることがそれほど重要なことかがよく理解できます。諸仏が名号を称えることによって「諸天人民蠕動のたぐひ、わが名字をききて、みなことごとく踊躍せん」ということです。ここに「聞く」というキーワードが出てきて、それによって謎がスルスルと解けます。名号が往生の因であるというのは、名号を称えること(称名)が因であるという意味でも、名号そのものが因であるという意味でもなく、名号を聞くこと(聞名)が因となるという意味であることが明らかになるのです。
 諸仏が「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏を敬います)」と称えて、その声がわれらに届き、そのとき「みなことごとく踊躍せん」というのです。
 先ほど名号そのものが因であるというのは神秘的だと述べましたが、名号が聞こえるというのもそれに劣らず神秘的ではないかと言われるかもしれません。しかし、これまでも繰り返し言ってきましたように、そのことに何も神秘的なことはありません。耳には聞こえない声がこころに聞こえるということに何の神秘もないでしょう。ある人の表情からことばにならない声(たとえば「好きだよ」の声)が聞こえてくるというのは普通の経験です。そのように、あるとき源左に「源左たすくる(源左よ、たすけるぞ)」の声が届いたというのも何の不思議もありません。名号すなわち本願に遇うというのはそのような経験です。

                (第18回 完)

タグ:親鸞を読む
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