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本願海が開く [正信偈と現代(その166)]

(2)本願海が開く

 「あく」には「開く」、「明く」、「空く」があり、「開く」は「扉が開く」、「明く」は「夜が明く」、「空く」は「席が空く」というようにつかいます。「開く」(と「明く」)の反対は「閉じる」で、「空く」の反対は「塞ぐ」ですから、閉じたり塞いでいたものが取り除かれ、目の前に自由な明るい空間がひろがることを意味します。これまで妨げられていたことが、いまや自由にできるようになるといったニュアンスです。
 そこで「本願海があく」ということを考えてみますと、これまでは本願海が閉じられていましたが、いまや障害物が取り除かれ、目の前に本願海がひろがるというイメージになります。いや、自分と本願海との間に何も障害物がないということは、もうすでに本願海のなかにいるということに他なりません。これまでは扉や幕で閉ざされていますから、こちらに自分が、向こうに本願海があって、両者は隔てられていたのですが、いまやそうした障害物がありませんから、両者はひとつで、もうすでに本願海のなかにいるのです。
 これまで向こうに本願海があったのに、いまや本願海のなかにいる、と言いましたが、こちらから移動して本願海に入ったということではありません。これまでもずっと本願海のなかにいたのです。そしていまも本願海のなかにいるのであって、そのことに何の変化もありません。ただ、これまではそのことに気づいていなかったのが、いまやそれに気づいたという違いがあるだけです。としますと、これまで本願海を閉ざしていた障害物というのは外にあるのではなく、内にあるということです。
 ここで「明く」という表現が生きてきます。「本願海が開く」と言うときは本願海に焦点が当たっていますが、「本願海が明く」と言いますと、われらのこころに焦点が当たります。これまではわれらのこころは闇に覆われて何も見えていません。まわりにどんな景色が広がり、自分がどんなところにいるのか皆目わからなかったのですが、そこにひかりがさしこむことで闇がはれる。そしてまわりには本願海がひろがり、もうずっとむかしからそのなかにいることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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