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閉じていたこころが開く [正信偈と現代(その167)]

(3)閉じていたこころが開く

 「本願海が開く」ことは「こころが開く」ことである―ここに「信じる」ということを解き明かす鍵があります。これまで闇に閉じていたこころが開くということ、これが信じることに他なりません。信じるということばには何かをつかみ取って放さないというニュアンスがありますが、これはむしろこころが閉じています。外からどんな攻撃があっても、こころをしっかりガードして、つかみ取ったものを手放さない、これが普通の「信じる」ですが、その時こころは固く閉じていると言わなければなりません。
 しかし「本願を信じる」とは、こころが本願をしっかりつかみ取って放さないということではありません。その逆に、これまで固く閉じていたこころがおのずから開くことです。そうしますと、まわりに本願の海がひろがっていて、もうはるか昔からそのなかにいたことに気づくのです。着目したいのは、この気づきは二重になっているということです。ひとつはもちろんこころが開いた(そしてそこに本願の海があった)という気づきですが、それは必ずもうひとつの気づき、こころは閉じているという気づきを伴い、二つの気づきが背中合わせにくっついています。
 ここから、こころは「おのずから開く」のであって、「みずから開ける」のではないことが明らかになります。
 「こころを開けよう」と思うのは、「こころが閉じている」からです。ところが、「こころが閉じている」と思うのは、「こころが開いた」ことに気づいたときです。「こころが開いた」ことに気づかないままですと、「こころが閉じている」と思うこともありませんから、「こころを開けよう」などと思うはずがありません。「こころが開いた」ことに気づかないうちは、「こころが開いた」と思うことがないのはもちろんですが、「こころが閉じている」と思うこともなく、ただただこんなもんだと思って生きているだけです。

タグ:親鸞を読む
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