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機と法 [正信偈と現代(その168)]

(4)機と法

 さて、「本願の大智海に開入すれば、行者正しく金剛心を受けしめ」という表現は、まずもって本願海に開入することがあり、しかる後に、そのことによって金剛心(信心)がえられる、というように受け取られかねません。しかしこれは、本願海に開入することが、取りも直さず金剛心をえることだという意味です。上のところで「本願海が開く」ことは、つまり「こころが開く」ことだと言いましたが、「こころが開く」ことが「信心をえる」ことに他なりませんから、「本願海が開く」ことと「信心をえる」ことは同じです。
 一方から言うと「本願海が開く」となり、他方から言うと「信心をえる」となるだけで、別のことではありません。浄土教では「機と法」ということばがしばしばつかわれます。「機」とは教えを受けるわれらのことで、「法」は本願の教えを指します。それをつかわせてもらいますと、「本願海が開く」とは「法」からの言い方で、「信心をえる(こころが開く)」とは「機」からの言い回しであって、同じことを法と機の両面から言っているだけです。
 普通に浄土の教えを語るときは、法があるから機が救われるというように「法から機へ」説かれます。弥陀の本願があるから、われらの救いがあると。それはそうに違いないのですが、本願の気づきがない人からしますと、きわめて独断的な響きがあります。特定のドグマが一方的に語られていると感じられ、もうそれ以上は聞く気がなくなってしまう。そこで逆に「機から法へ」と語るのはどうでしょう。われらの救いがあるから、弥陀の本願がある、というように。
 われらの救いといいますのは、これまで閉じていたこころがあるとき思いがけず開くということに他なりません。あるいはこれまで濁っていたこころがあるときすーっと澄むということ(プラサーダ、すなわち信楽です)。閉じたこころ、濁ったこころは、暗く沈んでいますが、そのこころが開き、すーっと澄みわたりますと、急に明るくなります。これが救いでなくて何でしょう。「こんな生に何の意味があるのか」と欝々としていたのに、「あゝ、生きてきてよかった」と思えるようになるのですから。

タグ:親鸞を読む
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