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信心の慶び [正信偈と現代(その169)]

(5)信心の慶び

 さて、「あゝ、生きてきてよかった」という喜びがわきあがることが、「慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍をう」と詠われています。三忍といいますのは、信心に伴い、喜忍(踊躍歓喜の思い)、悟忍(仏智をえたという思い)、そして信忍(本願を信受したという思い)の三つの徳がえられることをさします。つまりは閉じていたこころがとつぜん開き、濁っていたこころがさーっと澄んだときの晴れ晴れした慶びの心境を言っているのです。
 この慶びについて考えてみたいと思います。
 たとえば、かなり重い病にかかったのに、医者の腕がよかったのか、びっくりするほど簡単に治ったときの突き上げるような喜び、あるいは日ごろコツコツしてきた仕事が、たまたま人に知られることになり、思いがけず好評を博したときのこみ上げてくる喜び、など、世間にはさまざまな喜びがあります。それらも信心をえたときの慶びと何も変わらないように思えます。でも、病から解放されたときの喜びや、人から評価されたときの喜びは、そのときには天にも昇るような心地であっても、日が経つにつれ次第にかすんでいきます。そのうち喜びを感じたことを忘れてしまい、ときどき思い出してはそんなことがあったなあと懐かしむようになる。
 ところが信心の慶びは、いちど味わうことができますと、つねにこころのなかにありますから、いつでも同じ質感で味わうことができます。もちろん四六時中その慶びを感じているわけではありません。ときにはつまらないことに腹を立てたり、人を憎んだりして、慶びなどどこへやらということになります。でもどこかへいってしまったわけではなく、つねにこころのなかでスタンバイしていますから、怒りや憎しみが薄れるとともに蘇ってきます。このように、普通の世間的な喜びは一過性であるのに対して、信心の慶びには持続性があります。

タグ:親鸞を読む
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