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慶びと悲しみが背中合わせに [正信偈と現代(その170)]

(6)慶びと悲しみが背中合わせに

 世間的な喜びは一過性であることをみてきましたが、それは喜びというものはいずれ悲しみに取って代わられるということです。あるとき喜びを感じますが、そのうち悲しみがやってくる。喜びばかりが続くということもまれにはあるでしょうが、そんなときは不安にかられないでしょうか、こんなことが続くはずがない、そのうちきっとひどい悲しみがくるぞ、と。これが世間的な喜びで、喜びと悲しみは「あざなえる縄の如し」と言われる通りです。
 ところが信心の慶びの場合、それと背中合わせに悲しみがくっついています。慶びと悲しみが交互にくるのではなく、一体となっているのです。
 信心の慶びとは、もうすでに本願の海のなかにいることに気づくという慶びでした。そしてこの気づきは、これまでずっと罪業のなかにいることに気づくということでもありました。光に気づくという経験は、闇に遇うという経験でもあるのです。これまでそんなこと思いもしなかったが、本願に遇うことで、はじめて罪業のなかでもがき続けていることに思い至るのです。それは己れの悪をじっと見つめる悲しみの経験です。こんなふうに、本願に遇う慶びは、罪業に遇う悲しみを伴っているのです。
 世間的な喜びの場合は、もし同時に悲しみがあれば、互いに相殺し合います。その大きさが同程度なら、プラスマイナスゼロとなるでしょう。ところが不思議なことに、信心の慶びは背中合わせに罪業の悲しみがあることで、互いに相殺し合うどころか、むしろ慶びがいっそう深まるのです。悲しみが深いほど、慶びもまた深くなる。光が強ければ強いほど影は濃くなりますが、逆に、影が濃ければ濃いほどそれだけ光が強いということです。機の深信のないところに法の深信はありません。

                (第19回 完)

タグ:親鸞を読む
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