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偈文20 [正信偈と現代(その171)]

          第20回 源信-ひとへに安養に帰す

(1)偈文20

 源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう) 源信、広く一代の教を開きて、
 偏帰安養勧一切(へんきあんようかんいっさい)   偏(ひとえ)に安養に帰して、一切を勧む
 専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん) 専雑の執心、浅深を判じて、
 報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)   報化二土、正しく弁立せり。
 
 (現代語訳) 源信和尚は、釈迦一代の教えを広く学び、ひとえに浄土の教えに帰すべしと一切衆生に勧められました。専修(せんじゅ)と雑修(ざっしゅ)との違いを明確にして、専修によりはじめて真の浄土である報土へ往生でき、雑修では仮の浄土すなわち化土にとどまることを教えてくださいました。

 源信が44歳のときに書いた『往生要集』(往生極楽の要となる文を集めたもの、の意)の冒頭にこうあります、「それ往生極楽の教行は、濁世末代(じょくせまつだい)の目足(もくそく)なり。道俗貴賎、誰か帰せざる者あらん」と。源信は比叡山に登って良源に師事し、若い頃からその学識の高さは衆目の一致するところでしたが(「源信、広く一代の教を開きて」)、いつしか名声を嫌い横川に隠棲することになります(因みに「伝絵」によりますと、親鸞はこの横川で修行をしたとされます)。そこで『往生要集』を著し「往生極楽の教行」こそ「濁世末代の目足」であると説くのです(「偏に安養に帰して、一切を勧む」)。
 『往生要集』は第一章「厭離穢土(おんりえど)」から始まります。穢土を厭い離れるべしというのですが、穢土とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間の五悪道だけでなく、天を含む六道すべてを指します。いずれの世界もいかに苦しみに満ちているかを描写していくのですが、その圧巻はいうまでもなく地獄で、八種類の地獄の恐ろしげな様子がこれでもかと描かれていきます。そして第二章が「欣求浄土(ごんぐじょうど)」で、阿弥陀仏の浄土がいかに安楽な世界であるかが描かれ、浄土を願い求めざるべからざる所以が説かれるのです。ではどのようにして浄土に往生できるのか、その教行が第三章以下で詳しく説かれていくことになります。

タグ:親鸞を読む
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