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臨終の来迎 [正信偈と現代(その172)]

(2)臨終の来迎

 かくして浄土の教えの要点が『往生要集』によってまとめられたと言えます。その結果、浄土の教え、念仏の教えとはどういうものかというイメージが定まったと言っていい。その焦点はやはり「臨終の来迎」でしょう。南無阿弥陀仏を称えれば「命終(みょうじゅ)の時に臨んで」阿弥陀仏が観音・勢至菩薩などの聖衆を伴って迎えに来てくださり、浄土へ引接(いんじょう)してくださるという図柄がしっかり植えつけられました。その元はもちろん『観無量寿経』の九品往生にありますが、源信が欣求浄土の理由として、その第一に「聖衆来迎の楽」をあげることで、臨終来迎のイメージが人々のこころにしっかり定着していったと言えるでしょう。
 そのイメージに真正面から立ち向かっていったのが親鸞です。「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(『末燈鈔』第1通)。来迎とか臨終とかいうのは真実の信心のない人が言うことで、真実の信心の人にとっては、信心がさだまったそのときに往生もさだまるのだから、臨終を待つことも、来迎をたのむこともない、とはっきり言っています。
 ここは親鸞が源信を称えているところですから、源信と親鸞の違いを際立たせるのはふさわしくないかもしれませんが、親鸞浄土教の革新性を外さないために要となることですから、やはりちゃんと言っておかなければなりません。『往生要集』の内容だけでなく、それにもとづく源信の実際の念仏生活もまた「臨終の来迎」を中心に回っていたと思われますので(二十五人の同士が月に一度集まり、臨終来迎をたのんで念仏三昧をする、いわゆる「二十五三昧会」を続けています)、より一層重要だと言えます。
 問題は、臨終の来迎により往生するのか、はたまた信心さだまるとき往生するのかということです。

タグ:親鸞を読む
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