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往生とは何か? [正信偈と現代(その173)]

(3)往生とは何か?

 曽我量深氏の講話録に、往生の「生」は普通は「生まれる」としか読まれないが、「生きる」とも読めるとありました。「往きて生まれる」ではなく「往きて生きる」と。
 親鸞の書いたものでも、ひとつのことばを思いがけない方向に読んでいく場面に出くわしてハッとさせられることがよくありますが(たとえば、文脈からして「すなわち」と読むしかない「便」を「たより」と読んでみせるといった具合に)、曽我量深氏もその薫陶でしょうか、ことばの思いがけない読み方に目が覚める思いをさせられることがあります。なるほどぼくらは往生とは浄土に「生きる」ことではなく、浄土に「生まれる」ことだと思い込んでいます。そして、生まれるというからには、その前に死なねばならない。
 ここから「往生は死んでから」という思い込みが生まれます。
 浄土往生を輪廻転生と同じイメージでとらえてしまうのです。ぼくらはいま人間として生きているが、その生きざまの善し悪しにより、死んだあと畜生や餓鬼に生まれ変わるか、あるいはまた人間に生まれてくるかが決まる。これが輪廻転生ということですが、浄土往生もまた、いまの人間としての生が終わったあと、畜生や人間になるのではなく、浄土に生まれ変わるとイメージするのです。もう誰もかれも(浄土宗はもちろん、浄土真宗でも)往生とはそういうことだと思い込み、往生するのは死んでからのことに決まっていると思っています。
 はたして往生とはそういうことでしょうか。死んでから畜生や人間に生まれ変わるように、死んでから浄土に生まれ変わるのが往生でしょうか。いまさら言うまでもないことですが、浄土往生とは輪廻転生から解脱することです。もう生死の繰り返しから解放されること、これが往生です。だとしますと、往生の「生」と転生の「生」とはまったく違うものであるはずです。それはもはや普通の「生まれる」ということではない。ではそれはどういうことか。それは曽我量深氏の言われるように、「生まれる」ことではなく「生きる」ことです。しかし、これまでの「生きる」とはまた違う「生きる」です。

タグ:親鸞を読む
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