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無生の生(むしょうのしょう) [正信偈と現代(その174)]

(4)無生の生(むしょうのしょう)

 往生とは「往きて生まれる」のではなく、「往きて生きる」ということ、つまりこれまでの「生きる」から新しい「生きる」へと一変することです。
 では、どのように変わるのかと言いますと、これまではただ単に「わたしのいのちを生きる」であったのが、「わたしのいのちを生きる」ままで同時に「如来のいのちを生きる」へと変わるのです。これまでは「わたし」がいて「わたしのいのち」を主宰していると思っていたのが、もはや「わたしのいのち」を生きているのではなく、「如来のいのち」を生きていると感じる。曇鸞はこれを「無生の生」と言いました。『論註』に「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり」とあります。もはや単に「わたしのいのち」を生きているのではないから「無生」ですが、新しく「如来のいのち」を生きているから「生」。かくして往生とは「無生の生」であることになります。
 ここでまたもやこの世の生が終わってから「無生の生」をえるとしてしまいますと元の木阿弥です。それではまた輪廻転生に舞い戻ってしまう。そうではなく「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)のです。信心をえたそのとき「無生の生」をえるということ。しかし、あくまで「往生は死んでから」と考えたい人は、「往生さだまる」ということばを「そのとき往生するのではなく、死んだあと往生することがさだまる」と解します。でも、理屈を言うようですが、もし「さだまる」がそういう意味なら、「信心さだまる」もそう解しなければならないでしょう。しかし「信心さだまる」とは「信心をえる」ということですから、「往生さだまる」もまた「往生をえる」としなければつじつまが合いません。
 いや、とさらに反論は続くでしょう。「往生さだまる」を「往生をえる」と解してもいいが、その場合の往生とは正定聚となるという意味だ。それは親鸞自身がそのすぐ前のところで、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す」と言っている通りであると。浄土真宗のオーソドックスな教学(って何でしょう)では往生に「即得往生」と「難思議往生」の二つがあると説きます。前者は正定聚となることで、それは信心をえたそのときのこと、そして後者は浄土へ生まれることで、それはいのち終えてのちのことと。やはり眼目は「来生の往生」にあります。

タグ:親鸞を読む
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