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寿終(じゅじゅ)の時に臨んで [正信偈と現代(その175)]

(5)寿終(じゅじゅ)の時に臨んで

 「臨終の往生」は『観経』の九品往生の段にはっきり出てくることは先ほど述べた通りですが(2)、では『大経』はどうでしょうか。
 往生が「臨寿終時(寿終の時に臨んで)」とはっきり書かれているのは上巻では第19願、そして下巻ではその成就文とされる三輩段においてです。前者は「…わが国に生ぜんとおもはん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞(いにょう)して、そのひとの前に現ぜずといはば正覚をとらじ」、後者は「…これらの衆生、寿終のときに臨んで、無量寿仏、もろもろの大衆とともに、そのひとの前に現じたまふ。すなはちかの仏に随ひて、その国に往生す」とあり、往生が臨終のときであることが明記されています。
 それ以外の箇所で「生我国(わが国に生ず)」「生彼国(かの国に生ず)」という文言が出てくるときは「臨寿終時」を伴っていません。たとえば第18願では「…わが国に生れんと欲ふて、乃至十念せん。もし生れずば正覚をとらじ」であり、その成就文では「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」とあります。また東方偈では「み名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到り、おのずから不退転に到らん」とあり、いずれも「臨寿終時」とは書いていません。
 『観経』の九品往生を前提として『大経』を読めば、たとえ「臨寿終時」と書いてなくても、それは隠れているだけで、往生は臨終のときに決まっているということになるでしょう。しかしそれは親鸞のとるところではありません。親鸞は浄土三部経のなかで『大経』こそが真実の経であり、『観経』(と『小経』)は方便の経としました。そして第18願、第19願、第20願をそれぞれ『大経』、『観経』、『小経』と対応させ、第18願が真実の願であるのに対して、第19願と第20願を方便の願としたのです(『教行信証』「化身土巻」)。
 ここから浮かび上がるのは、『観経』の九品往生に「命欲終時(命終わらんと欲する時)」とあり、第19願およびその成就文に「臨寿終時(寿終の時に臨んで)」とあるのはあくまで方便であるということではないでしょうか。真実は本願成就文にあるように「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ」るのです。「信心のさだまるとき往生またさだまる」のです。

タグ:親鸞を読む
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