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専修と雑修 [正信偈と現代(その176)]

(6)専修と雑修

 かなり横道にそれてしまいましたが、正信偈に戻りまして「専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり」の意味するところを考えたいと思います。
 専修と雑修。もっとも一般的な意味としては、専修は「念仏のみ修すること」、雑修は「それ以外の行もまじえること」ということですが、念仏のみを修していても、そこに自力のこころがまじっていては正真正銘の専修とは言えないでしょう。ですから問題はこころが専ら如来回向の信心となっているか、それともそこに自力のこころがまざっているかということです。純粋に他力のこころになっているのが専修で、少しでも自力のこころがまざっていれば雑修と言うべきです。
 少し前のことですが名古屋の東別院で作家の高橋源一郎氏の話を聞く機会がありました。いくつか印象に残ったことがあるのですが、その一つが幼児洗礼についての話でした。
 彼が大学で教えている学生がクリスチャンである自分に居心地の悪さを感じていて、その根っ子に幼児洗礼があるということに気づき、その問題を研究テーマとしたいと申し出たそうです。そこで彼もいろいろ調べてみたそうですが、おもしろかったのは、カール・バルト(「ローマ書」の研究で有名な神学者)が、生まれたばかりの赤ん坊に神との間で契約を結べるはずがないから、幼児洗礼などというのは意味がないと主張しているのに対して、オスカー・クルマンという学者がそれに対して反論したというのです、バルトは信仰というものが分かっていないと。信仰とは神との契約などではないというのです。
 ルター以来、キリスト教の信仰とはひとりの人間が聖書だけをはさんで神に面と向き合うことであると説かれ、バルトもその立場から幼児洗礼を批判しているのですが、クルマンとしますと信仰とはそのような契約関係ではなく、神からの一方的な贈与であると言うのです。そして幼児洗礼というのは神からの一方的贈与を儀礼としてあらわしているのだから何の問題もないということになります。


タグ:親鸞を読む
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