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報土と化土 [正信偈と現代(その178)]

(8)報土と化土

 小さい円とより大きな円が別々にある場合と、小さい円がより大きな円のうちに包まれている場合を思い浮かべてください。それぞれの円が「わたしのいのち」と「如来のいのち」を表しています。前者においては「わたしのいのち」と「如来のいのち」は交換の関係にありますが、後者においては贈与の関係です。後者の場合、「わたしのいのち」は「如来のいのち」から一方的に贈与を受けますが、それに何の負い目を感じることもありません。なぜなら、「わたしのいのち」というものの、それは「如来のいのち」に他ならないからです。
 専修と雑修でいいますと、前者が雑修、後者が専修であるのは言うまでもありません。
 さて雑修では方便化土への往生にとどまり、専修で真実報土へ往生できるというのが、最後の一句です(「報化二土、正しく弁立せり」)。前に往生は信心さだまるそのときであることを見てきましたから、その必然の帰結として、化土と言い、報土と言いますのも、いのち終わってからではなく、信心さだまるそのときのこととなります。「浄土は死んでから往くところ」という頭にこびりついた偏見から離れるために、善導の『般舟讃』の一節を参照したいと思います(親鸞はこれを信巻に引用しています)。「いとへばすなはち娑婆ながくへだつ。ねがへばすなはち浄土につねに居す」。
 娑婆といい、浄土というのも、ここではないどこかにあるのではありません。この世は娑婆であるというのは、この世は娑婆であるという気づきに他なりません。この世を娑婆として厭わなければ、娑婆などどこにもありません。娑婆とは「サハ―」つまり「さまざまな苦しみを忍んで受けななければならないところ(忍土と訳されたりします)」という意味ですが、苦しみを苦しみとも思わず、むしろそれを楽しみと思って生きていますと、娑婆などどこにもありません。ところが、あるとき、あゝ、ここは娑婆だと厭わしく思うとき、はじめて娑婆が姿をあらわすのです。そして不思議としか言いようがありませんが、娑婆が娑婆となったとき、背中合わせに浄土がその姿をあらわすのです。すでにそこに浄土があることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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