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その心すでにつねに浄土に居す [正信偈と現代(その179)]

(9)その心すでにつねに浄土に居す

 善導が「いとへばすなはち娑婆ながくへだつ。ねがへばすなはち浄土につねに居す」ということばで言わんとしたことを親鸞は手紙のなかでこうかみ砕いてくれました、「光明寺の和尚の『般舟讃』には、信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す、と釈したまへり。居すといふは、浄土に信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。…信心のひとは如来とひとしとまふすこころなり」(『末燈鈔』第3通)と。善導の文には「こころ」とはありませんが、親鸞は「こころ」を加えて読んでいます、「その心すでにつねに浄土に居す」と。身は娑婆にあっても、こころは浄土に居るということです。
 娑婆と浄土は、こちらに娑婆があり、あちらに浄土があるというようにはなっていません。もしそうでしたら、往生とはこちらの娑婆からあちらの浄土へ移動することとなり、それができるのはこの煩悩具足の身が死んでからということにならざるをえません。しかし、すぐ前のところで言いましたように、ここは紛れもなく娑婆であると気づいたそのとき、娑婆と背中合わせに浄土が姿をあらわすのです。この娑婆が娑婆のままで浄土であることに気づく。そのことを親鸞は「その心すでにつねに浄土に居す」と言っているに違いありません。
 先ほど、互いに外なる二つの円と、より小さい円がより大きな円のうちに包まれている図を描きましたが、娑婆と浄土は互いに外なる二つの円ではなく、より小さい円である娑婆がより大きな円である浄土のなかに包みこまれているという構図になります。ここは紛れもなく娑婆ですが、娑婆であるままで浄土でもあるのです。これが真実の浄土(報土)ですが、では化土とは何か。もう明らかでしょう。この娑婆とは別のところにあり、したがって今生のいのちが終わったのちに往くでろうところです。そんなところがほんとうにあるのかどうか、まだ誰も見てきた人はいませんが、そういうところがあるだろうと想定されているのです。ですから方便化土です。
 専修のひとは「その心すでにつねに浄土に居す」のに対して、雑修の人は臨終の来迎を夢みています。

                (第20回 完)

タグ:親鸞を読む
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