SSブログ
正信偈と現代(その184) ブログトップ

貪愛瞋憎の雲霧 [正信偈と現代(その184)]

(5)貪愛瞋憎の雲霧

 プラトンは「肉体の牢獄」と言います。魂は肉体の牢獄に閉ざされており、イデアを想起することができるだけで、そのまま見ることはできないと。同じように、われらのこころは煩悩の牢獄に閉ざされていますから、紛れもなく弥陀の心光に照らされていると感じても、それを直に目にすることはできないと言えるでしょう。「如来のいのち」の大円のなかに「わたしのいのち」の小円が包みこまれているというあの構図をもういちど思い起こしたいと思います。
 「わたしのいのち」は「如来のいのち」の外ではなく内にあるのでした。その意味で「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であるままで「如来のいのち」であると言えるのですが、しかしその一方で「わたしのいのち」は、卵の殻のように、しっかり殻に覆われていますから、「如来のいのち」と直に一体となっているわけではありません。「わたしのいのち」を覆っている殻が「如来のいのち」との完全な一体化を妨げているのです。
 偈文7にこうありました、「已に能く無明の闇を破すと雖も、貪愛瞋憎の雲霧、常に真
実信心の天に覆えり」と。貪愛瞋憎の雲霧が「わたしのいのち」を覆っている殻で、これがあるから、摂取の心光を直に見ることはできない。このように言われますと、貪愛瞋憎の雲霧は摂取の心光を妨げる障害物であり、それがなければ晴天のもとで白日を目の当たりにすることができるのに、と思ってしまいます。しかし貪愛瞋憎の雲霧があるから摂取の心光に気づけないのではありません。もうすでに摂取の心光に気づいているのです、ただそれを直に見ることができないだけであるということ。これを忘れないようにしなければなりません。
 貪愛瞋憎の雲霧と摂取の心光とは不倶戴天の敵ではありません。むしろ貪愛瞋憎の雲霧があるからこそ摂取の心光に気づくことができるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その184) ブログトップ