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光あれ [正信偈と現代(その186)]

(7)光あれ

 ここでまた『創世記』冒頭の「神は『光あれ』と言われた、すると光があった」を引き合いに出したいと思います。神が「光あれ」と言われる前はどうだったかを考えてみたいのです。一面の闇であったに決まっているじゃないか、と言われるでしょうか。しかしそれは光が登場した後から、その前は闇であったと述懐しているのではないでしょうか。神が「光あれ」と言われる前に身をおいてみますと、そこにはもちろん光はありませんが、闇もなかったと言わなければなりません。闇は光が登場してはじめて闇となるのですから。そこは光でも闇でもない混沌の世界というしかありません。
 今度は逆に生まれてこのかた光一面の世界に生きていることを想像してみましょう。これまで夜の闇というものを経験したことがないとしますと、そこは闇の世界でないのはもちろんですが、光の世界でもないと言わなければなりません。闇を経験してはじめて光が光となるのですから。そこはこれまた闇でも光でもない混沌の世界と言わなければなりません。このように考えてきますと、光があるから闇があり、闇があるから光があるのであり、光と闇は引きはがしがたく一体です。
 さて「わたしのいのち」と「如来のいのち」ですが、前者は煩悩の「闇」、後者は弥陀の「光」です。
 まず弥陀の光があるから煩悩の闇があるということ。神が「光あれ」と言われる前は闇も存在しなかったように、弥陀の光に照らされることがなければ、煩悩の闇も存在しません。世界は光でも闇でもないただの混沌です。弥陀の光に遇わなければ、煩悩を煩悩と知ることもなく、ひたすら煩悩に引きずり回されているだけ。強欲な金貸し婆さんを殺して金を奪うことは悪でも何でもないと思っていたラスコリニコフは、ソーニャを通じて神の愛に出遇い、はじめて罪に気づかされたのです。

タグ:親鸞を読む
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