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正信偈と現代(その188) ブログトップ

偈文22 [正信偈と現代(その188)]

         第22回 源空-選択本願、悪世にひろむ

(1)偈文22

 本師源空明仏教(ほんしげんくうみょうぶっきょう)  本師源空は仏教をあきらに
にして
 憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんあくぼんぷにん)      善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
 真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう)真宗の教証、片州に興す。
 選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)     選択本願、悪世にひろむ。
 
 (現代語訳) わが師、源空(法然)上人は仏教の真髄が念仏にあることを明らかにして、われら善悪の凡夫を憐れに思ってくださり、浄土の真実の教えをわが日本に興して、弥陀選択の本願をこの悪世にひろめてくださいました。

 いよいよ七高僧の最後、法然です。親鸞と直接の師・法然との関係をどう見たらいいのかについては、なかなか悩ましいところがあります。一方では、親鸞の書いたものと法然の書いたものを公平な目で比べてみますと、そこにはやはり画然とした差があると言わざるをえません。ところが他方では、親鸞自身が法然について言っていることばをみますと、自分はただただ法然上人の教えを信じているだけで、それと違うことを言うなどは滅相もないといった感じです。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」ということばはそれを証言しています。
 これはしかし法然に限ったことではなく、それ以前の高僧たちについても多かれ少なかれ言えることです。どう見ても大きく違うと言わざるをえないのに、親鸞は高僧たちについて、こういう点で異なりますと言うことはありません。高僧たちはお一人お一人こんなふうに浄土の教えを顕彰してくださいましたとほめたたえるばかりで、非を鳴らすことはついぞありません。これは、つきつめますと、親鸞という人は、文字を読む人ではなく、そこから聞こえてくる声を聞く人であるということだと思います。文字を読みますと、どうしても違いが見えてきますが、声を聞きますと、こころに沁みたことばだけが残り、あとは印象に残らないのです。

タグ:親鸞を読む
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