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選択本願 [正信偈と現代(その190)]

(3)選択本願

 こんなふうに親鸞としては「よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに」ないのですが、さてしかし法然の『選択本願念仏集』と親鸞の『教行信証』とを読み比べますと、その違いがいやでも目に入ってきます。親鸞にとっては、繰り返し言いますように、そこに「何が書いてあるか」よりも、そこから「何が聞こえてくるか」が問題なのですが、われらとしては二つの書物に書かれてあることから、法然と親鸞の違いを汲み取らなければなりません。そうすることによりはじめて親鸞は『選択本願念仏集』から何を聞き取ったのかを理解できるのですから。
 法然の開眼は善導の『観経疏』の一節が目に飛び込んできたときに起こりました。法然43歳のとき、比叡山黒谷の経堂で出あったのが、「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏願に順ずるが故に」の一文です。これを読み、それまでの疑問が一挙に氷解したと感じた法然は比叡山を下りて東山吉水の庵で専修念仏の教えを説きはじめるのです。念仏だけで救われる、なぜなら念仏こそ「かの仏願に順ずる」からである。この確信が日本に浄土宗を開かせた。
 さてでは「かの仏願」とは何でしょうか。
 それが選択本願、すなわち第18願です。「至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚(心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚をとらじ)」。法然はこのなかの「乃至十念」に着目し、これを念仏往生の願と名づけました。善導はこの願を「わが国に生ぜむと願じて、わが名号を称すること下十声に至らむに、わが願力に乗じて、もし生ぜずば正覚をとらじ」(『観念法門』)と読み替えていますが、法然はそれにもとづいて「たとえ十声でも念仏すれば往生させよう」との願であると受け取るのです。
 ではどうして念仏が往生の行として選択されたのか。仏の意図ははかりがたいが、と言いながら、一つは「(仏の功徳が)皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在」するからであり、もう一つは「念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか」と言います。

タグ:親鸞を読む
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