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称名と聞名 [正信偈と現代(その191)]

(4)称名と聞名

 念仏するだけで往生できる。なぜならそれが弥陀の選択本願なのだから。ではなぜ弥陀は念仏だけを往生の行として選択したのか。それは念仏には仏の功徳のすべてが詰まっていて、しかも誰でも修めることができるから。このように法然は理路整然と論を進めますが、『教行信証』を読んだわれらからしますと、ここには称名だけがあって聞名がないことに気づきます。名号を称えれば往生できるとあって、名号を聞くことが一向に出てこないのです。なるほど経典には確かに名号を称えれば往生できると書いてあります。ですから経典を信じて名号を称えればいいのかもしれませんが、さてしかしどのようにしてその経典を信じることができるのか。
 仏教徒としては経典を信じることがすべてのスタートではないか、と言われるかもしれません。でも残念ながらぼくはその立場に立つことができません。「これは仏教の経典ですから、ここに真理が説かれています」というのはドグマティズム(教条主義)でしかありません。「ここに真理が説かれている」と思えるのは、そこに書かれていることがドシンとぼくの胸に届くからであり、それが経典であるからではありません。たとえ経典でなくても、そこにあることばがぼくにドシンと届けば、それが真理です。そして経典に「名号を称えるだけで往生できる」と書いてあるということだけでは、ぼくの胸にドシンとこないのです。
 何かが足りない。
 法然は第18願だけを選択本願とするのですが、親鸞は第18願とともに第17願を選択本願とします。第17願とは「十方世界無量諸仏、不悉咨嗟(ふしつししゃ)、称我名者、不取正覚(十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟‐ほめる‐して、わが名を称せずは、正覚をとらじ)」。諸仏がみな南無阿弥陀仏と称えるようにしたいということで、諸仏称名の願とよばれますが、われらからすると諸仏の称名を聞く願、聞名の願です。『選択集』ではこの第17願にまったくふれられませんが、『教行信証』では「行巻」に第17願、そして「信巻」に第18願が取り上げられるのです。

タグ:親鸞を読む
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