SSブログ
正信偈と現代(sの194) ブログトップ

南無阿弥陀仏と遇う [正信偈と現代(sの194)]

(7)南無阿弥陀仏と遇う

 法然は第18願だけを選択本願としましたが、それではどうして「往生の業には念仏を先とす」(これは『選択集』の巻頭に掲げられていることばです)と言えるのかが明らかではないということを見てきました。そのためには第17願が必要であるということ。上で第17願は第18願と一緒になってはじめてその意味がはっきりすると言いましたが、と同時に、第18願は第17願と一緒になってはじめてわれらの胸にドシンと届くのです。第18願だけではドシンとこないが、第17願とつなげて見ることによってはじめてストンと肚に落ちる。かくしてここに真理が語られていると感じられるのです。
 ただ、ここに真理が語られていると感じることと、真理と一体となるのとはまた別のことです。
 親鸞から第17願と第18願はひとつの願として選択本願であると教えられることで、そうか、だから南無阿弥陀仏と称えることで往生できるのだ、と腑に落ちるのですが、だからといって、それで南無阿弥陀仏の声が聞こえたということにはなりません。南無阿弥陀仏は、われらがそれを称えるより前に向こうから聞こえてくるのであり、そのときわれらは「あゝ、うれしや」と南無阿弥陀仏と称えるのだ、そしてそれが往生するということなのだ、と納得できたからといって、それは向こうからやってくる南無阿弥陀仏の声を聞いたということではありません。
 南無阿弥陀仏は、われらがそれを称えるより前に向こうからやってくるということは、われらは南無阿弥陀仏に「遇う」ということです。天親の『浄土論』に「仏の本願力を観ずるに、遇(まうお)うて、空しく過ぐる者なし」とありますが、あの「遇う」です。向こうからやってくる南無阿弥陀仏に遇って「はっ」とするとき、何ごともなくそのまま過ぎてしまうなどということはない、喜びがこころに湧き上がり躍り上がりたくなる、というのです。そう聞かせてもらい「そうだろうなあ」とこころから思う。それはしかし実際に南無阿弥陀仏と遇うことではありません。

                (第22回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(sの194) ブログトップ