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偈文23 [正信偈と現代(その195)]

          第23回 源空-信心をもて能入とす

(1)偈文23

 還来生死輪転家(げんらいしょうじりんでんげ)   生死輪転の家にかへりきたることは、
 決以疑情為所止(けっちぎじょういしょし)      決するに疑情をもて所止とす。
 速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく) すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
 必以信心為能入(ひっちしんじんいのうにゅう)   かならず信心をもて能入とすといへり。

 (現代語訳) 法然上人はこう言われます、またもや生死輪廻の世界に戻ってしまうのは、結局のところ疑いのこころがあるからです。すみやかに涅槃寂静の世界にはいるには、信心こそが肝心なのです、と。

 疑情と生死輪転、信心と寂静無為、という対が示されますが、もとになっているのは『選択集』の「(八)念仏行者は必ず三心を具足すべき」の一文です。この三心とは『観経』の三心で、至誠心・深心・廻向発願心のことですが、そのうちの深心について、こう言われます、「次に深心とは、謂はく深信の心なり。まさに知るべし。生死の家には、疑ひをもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす」と。
 本願に疑いをもっているかぎり、いつまでも生死の迷いのなかにあるが、本願を信じることでただちに涅槃の無為楽に入ることができるというのです。疑うと信じる、これが生死の家と涅槃の城との分かれ道となる。こちらに生死の家があり、あちらに涅槃の城があるのではありません。たったひとつのこの世界が、本願を疑う人には生死の家となり、本願を信じる人には涅槃の城となるのです。
 いったい、この疑うと信じるというのはどういうことでしょう。そのことによってどうしてひとつの世界が生死の家になったり、涅槃の城になったりするのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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