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疑と信 [正信偈と現代(その196)]

(2)疑と信

 何かを疑うとか信じると言うとき、疑うか信じるかを決するこころがあり、そして疑われるか信じられるかする何かがあります。疑うにせよ、信じるにせよ、それを決するこころはひとつで何も変わりありません。変わりあるのは疑われるか信じられるかする何かの方です。あることは疑われ、あることは信じられるのですから、それを決するこころに違いがあるのではなく、決せられる何かに違いがあるのです。「疑うこころ」と「信じるこころ」の二つがあるのではなく、疑わしいことと信じるに値することの二つがあるだけです。リトマス試験紙には何の違いもありませんが、試験される液体に酸性とアルカリ性の違いがあり、この液体は酸性、あの液体はアルカリ性と判別されるように、われらのこころに何の違いもありませんが、調べられる対象として、たとえば天動説と地動説があり、天動説は疑わしい、地動説は信じられると決せられるのです。
 これが世間一般の「疑うと信じる」ですが、どうも本願を「疑うと信じる」はまったく異なるようです。
 まず本願を信じることから。普通には、こちらに信じるこころがあり、あちらに信じられる何かがあるのですが、本願を信じるというときは、そのように信じるこころと信じられる本願が別々にはなっていません。ただ「本願を信じているこころ」があるだけです。まだ本願を信じていなかったこころが、あるときふいに「本願を信じているこころ」になる。これが「信楽開発の時剋の極促」(「信巻」)という不可思議な瞬間です。親鸞は「開発」ということばをつかっていますが、まさにそのときこころが開くのです。これまで閉じていたこころがふいに開いたと感じる。開けようとして開くのではありません、思いもかけず開くのです。開いてから開いたことに気づく。
 『大無量寿経』では「開神」ということばがつかわれています。神というのはこころのことで、開神とはこころが開くということですが、宝池に入りますと「神(こころ)を開き体を悦ばしめ(開神悦体)、心垢(しんく、煩悩のこと)を蕩除(とうじょ)す」と書かれています。これが「本願を信じているこころ」でしょう。

タグ:親鸞を読む
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