SSブログ
正信偈と現代(その198) ブログトップ

本願を疑う [正信偈と現代(その198)]

(4)本願を疑う

 もういちど言います、まずもって「こころ」があり、しかる後に本願を信じるのではありません。本願を信じているこころがあるだけです。気がついたらもうすでに本願を信じているこころがあったのです。そのとき「あゝ、本願を信じている」と気づいているのですが、と同時に「何ということだ、これまではずっと信じていなかったのか」と思う。「これまでずっと信じていなかった」というのは、これまでもずっと本願があったのに、そのことにちっとも気づいていなかったということです。
 ここから「本願を疑う」とはどういうことかが見えてきます。
 そもそも本願に気づいたことはなく、それについて聞いたこともない人は、疑うも疑わないもありません。「何それ?」と思うだけです。本願を疑うこころが起るのは、自分は本願に気づいていないのに、誰かから「わたしは本願を信じている」と言われるときです。そのとき「何それ?」と思うとともに、「そんなものどこにある?」と疑う。「そんなものどこに?」と疑うというのは、客観的な存在としての本願を疑うということです。一般的に何かがあるかどうかについて疑うとき、それは客観的に存在するかどうかを疑うということです。ある人があると言っているのに、そんなものがあるのかと疑うのですから、誰にとってもあるかどうかを問題にしているのです。
 さてしかし本願は客観的にあるものではありません。それは気づいた人にとってはじめて存在するものですから、本願を疑うというのはもとから的外れであると言わなければなりません。本願についてはそれに気づいたか気づいていないかしかなく、気づいた人は「本願を信じる」と言いますが、気づいていない人はそれを信じることがないのはもちろん、「本願を疑う」こともありません。「わたしは本願を疑っています」と言う人は、「わたしは本願に気づいていません」と言っているに過ぎないのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その198) ブログトップ