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涅槃の城はどこに? [正信偈と現代(その200)]

(6)涅槃の城はどこに?

 このように見てきますと、「わたしにとってだけ存在する」ものとは、わたしにとってなくてはならない宝物であるということで、そういうものこそ、ほんとうに存在すると言えるのではないでしょうか。キルケゴールは「主体性が真理である」と言いましたが、それは「わたしがそれによって生きることができ、それによって死ぬことができるような真理こそ、ほんとうの真理である」ということで、同じことを言っています。「誰にとっても」真理であるとしても、その真理によりこのわたしが生きることができ、死ぬことができるのでなければ何の意味もないということです。
 これまで、本願を信じるということ、それを疑うということはどういうことかを考えてきました。
 本願を信じるとは、本願によってはじめてほんとうに生きることができ死ぬことができると気づくことであり、本願を疑うとは、その気づきがないということです。では次に、本願を信じることで涅槃の城に入ることができ、本願を疑うことで生死の家に止まるというのはどういうことか、これを考えなければなりません。先ほど(1)、こちらに生死の家があり、あちらに涅槃の城があるのではなく、たったひとつの世界が、本願を疑う人には生死の家となり、本願を信じる人には涅槃の城となるのだと言いましたが、それはどういうことでしょう。
 本願はそれに気づいた人にだけ存在すると言ってきましたが、涅槃の城(浄土)についても同じことが言えます。つまり「あゝ、ここは涅槃の城だ」と気づいた人にだけ涅槃の城は存在するということです。本願によってほんとうに生きることができ死ぬことができると気づくことは、ここが涅槃の城だと気づくことに他なりません。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。本願に気づく前は本願なんてどこにも存在しなかったように、涅槃の城もそれに気づく前はどこにもありません。

タグ:親鸞を読む
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