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自由ということ [正信偈と現代(その204)]

(3)自由ということ

 たしかに「わたし」は承認を求められることなく、ある父母のもとに生まれてきます。としますと親子の関係は「わたし」に先立っていることになります。しかし、どうでしょう、もし「わたし」がこの親子関係はどうにも耐え難いと思ったら、拒絶することもできるのではないでしょうか。血のつながりはどうしようもないとしても、親と思い、子と思うという関係は断ち切ることができないわけではありません。としますと、やはり「わたし」がこの親子関係を(たとえ嫌々であるとしても)承認しているのです。まず「わたし」がいて、しかる後に関係を取り結んでいると言わなければなりません。
 自由というのはそういうことです。
 「わたしは貝になりたい」というドラマを思い出します。主人公の二等兵は柱に括りつけられた捕虜を銃剣で突き刺すことを命じられます。戦争犯罪人として法廷に立たされた二等兵は、「上官の命令は天皇の命令ですから、拒否することはできませんでした」と必死に弁明しますが、検事から「あなたはロボットではなく人間ですから、どうしても嫌だと思ったら拒否できたはずです」と追及され刑場の露と消えていきました。哀れな二等兵の「わたしは貝になりたい」という呟きに満腔の同情を覚えながら、同時に検事の「あなたは自由です」という宣告にも真実を感じざるをえません。
 学生時代に勉強したカントのことばとして今もしっかり胸に刻まれているのは、「わたしのこころをいつも感嘆と畏敬の念で満たすものが二つある、わが上なる星空とわが内なる道徳律である」というものと、「汝の人格と他のすべての人格における人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ」というものです。これはカント哲学の珠玉と言うべきで、自由な人格としての「わたし」を大切にせよと説きつづけたのがカントという人です。

タグ:親鸞を読む
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