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宿業とは [正信偈と現代(その206)]

(5)宿業とは

 さて、「わたし」が「つながり」を選ぶという見方は重い責任を感じさせもしますが、でも基本的には明るい色調です。それに対して「つながり」が「わたし」を選んでいるという方は、何か闇に閉ざされたような感じにさせないでしょうか。この違いは時間と深く関係しています。「わたし」が「つながり」を選ぶのが明るいのは、ことが「これから」にかかわるからです。対して「つながり」が「わたし」を選ぶのがどうしようもなく暗いのは、ことが「もうすでに」決しているからです。すでに決していることはもはやいかんともしがたい。これが暗さを生んでいます。
 宿業ということばに罪の匂いが染みついているのはそういうことでしょう。一旦染みついた罪の匂いはどこまでもつきまといます。「わたし」に主導権がありましたら、過去の罪は罪として、「これから」はもう罪を犯さないようにすることで埋め合わせをすることもできるでしょうが、宿業に規定されている以上、「曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」(善導『観経疏』)です。そして宿業は時間的(「曠劫よりこのかた」)のみならず空間的にも果てしなく広がります。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」(『歎異抄』第5章)としてつながっているのですから、「一切の有情」の罪はわが罪となります。
 前に韓国・慶州の旅についてお話したことがありますが、韓国人ガイドから「この仏国寺に石造建築しか残っていないのは、お国の秀吉軍が焼き討ちをかけたからです」と聞かされたとき、ぼくの胸がチクッと痛んだのは、ぼくと秀吉軍との「つながり」の感覚からです。ぼくの手はまったく汚れていません。でもぼくの宿業は汚れている。ぼくはヒトラーと何の縁もありませんとは言えません。ヒトラーもまた「世々生々の父母兄弟」である以上、宿業のなかでつながっているのですから。

タグ:親鸞を読む
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