SSブログ
正信偈と現代(その208) ブログトップ

南無阿弥陀仏 [正信偈と現代(その208)]

(7)南無阿弥陀仏

 南無阿弥陀仏とは救いの「つながり」であるということ、これを考えることでこの講座を締めくくりたいと思います。
 先にこういいました(1)、阿弥陀仏に救われるのではなく、南無阿弥陀仏に救われるのだ、と。「わたしは阿弥陀仏を信じます」ということばはどこか嘘くさい。力んで言っているような気がするのです。力まざるを得ないのは、自分と阿弥陀仏との間に距離があるからに違いありません。その距離を埋めるために一生懸命「信じます」と言わなければならないのでしょう。それに対して「わたしは南無阿弥陀仏にささえられて生きています」ということばは自然です。それは南無阿弥陀仏と直に接しているからでしょう。南無阿弥陀仏は「帰っておいで」という声として聞こえていますから、自分との間に距離がなく、直接つながっているのです。
 「わたしは阿弥陀仏を信じます」においては、力のベクトルが「わたし」から「阿弥陀仏」に向かっています。ところが「わたしは南無阿弥陀仏にささえられています」では、力のベクトルが「南無阿弥陀仏」から「わたし」に向かっています。いや、もうすでにその力が「わたし」に届いていることに気づいているのです。前者においては、「わたし」が「阿弥陀仏」とつながろうと一生懸命に手を差しのべています。それに対して後者では、「南無阿弥陀仏」の手がすでに「わたし」とつながっています。「南無阿弥陀仏」の手が「わたし」の背をさすってくれているのです。
 「わたし」が「阿弥陀仏」とつながろうとしてどんなに手を差しのべてもつながることはできません。ところが「南無阿弥陀仏」の手はもうとっくのむかしに「わたし」とつながっていて、「わたし」をささえてくれているのです。源信が「煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」と言うのは、そういうことでしょう。

                (第24回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その208) ブログトップ