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本文1 [はじめての『尊号真像銘文』(その1)]

         第1回 もし生まれざれば正覚をとらじ

(1)本文1

 みなさん、こんにちは。これから『尊号真像銘文』を読んでまいりたいと思います。何はともあれ冒頭の部分を読んでみましょう。

 『大無量寿経』言「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法」
 「大無量寿経言(ごん)」といふは、如来の四十八願をときたまへる経なり。「設我得仏(せつがとくぶつ)」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。「至心信楽」といふは、至心は、真実と申すなり。真実と申すは、如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪(じょくあく)邪見のゆゑなり。信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この至心信楽は、すなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。(以下、本文2)

 『大無量寿経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」。
 「大無量寿経言」と言いますのは、『大無量寿経』は如来の四十八願が説かれている経典ということです。「設我得仏」と言いますのは、「わたしが仏となったとき」ということばです。「十方衆生」と言いますのは、十方のすべての衆生ということです。「至心信楽」と言いますのは、至心は真実ということです。真実というのは、如来のお誓いが真実であることを至心と言っているのです。煩悩具足の衆生には、もとから真実の心はありません。清浄の心もありません。濁悪で邪見の心だからです。信楽というのは、如来の本願が真実であることを、二心なく、深く信じて疑いませんから信楽というのです。この至心信楽とは、十方の衆生にわたしの真実なる誓願を信じなさいとすすめてくださるお誓いの至心信楽ということで、決して凡夫の自力の心のことではありません。「欲生我国」とは、他力の至心信楽の心で安楽浄土に生まれようと思いなさいということです。

タグ:親鸞を読む
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