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煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし [はじめての『尊号真像銘文』(その3)]

(3)煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし

 そこで第18願の願文に入り、まず「『設我得仏』といふは、われ仏をえたらむときといふ御ことばなり」。
 四十八願のすべてが「設我得仏(たとひわれ仏を得たらんに)」で始まり、「不取正覚(正覚を取らじ)」で終わっています。「わたしが仏となることができたとしても、もし何々ならば、正覚はとりますまい」と言っているのです。たとえば第1願は「たとひわれ仏をえたらんに、国に地獄、餓鬼、畜生あらば、正覚を取らじ」となっています。その「たとひわれ仏をえたらんに」を親鸞は「われ仏をえたらむとき」と言い換えているのです。その方がすっきりして分かりやすいと言えるでしょう。
 その次の「十方衆生」は「あらゆる衆生」ということですが、問題はその先の「至心信楽」です。
 親鸞は「至心は、真実とまふすなり。真実とまふすは、如来の御ちかひの真実なるを至心とまふすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆへなり」と言います。ここはじっくり考えなければなりません。「十方の衆生、心を至し(あるいは至心に)信楽して」は「われら衆生が、真実の心で信楽して」ということですから、われらに真実の心があるという前提で言われているものと思います。ところが親鸞は「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」と言うのです。
 頭に浮ぶのが善導の文、「不得外現賢善精進之相内懐虚仮(ふとくげげん、けんぜんしょうじんしそう、ないえこけ)」(『観経疏』「散善義」)です。普通は「内に虚仮を懐いて、外に賢善精進の相を現ぜざれ」と読むところを、親鸞は「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読んだのでした。ここに親鸞的感性がくっきりと現れています。「内に虚仮のこころを懐かないように」と優しく諭すのが世の常識でしょうが、「内は虚仮のこころが満ち満ちていて、真実のこころなどあるはずがない」と言い放つのが親鸞です。
 としますと「心を至し(至心に)信楽して」はどうなるのでしょう。われらに真実のこころ(至心)など欠片もないとしますと、これをどう読めばいいのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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