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信楽すべしとすすめたまへる [はじめての『尊号真像銘文』(その4)]

(4)信楽すべしとすすめたまへる

 信楽についてはこうあります、「信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば、信楽とまふす也」と。
 この「ふたごころなく」が至心ですから、如来の本願を「ふたごころなくふかく信じてうたがはざる」ことなどわれら衆生にできるはずがないということになります。ならば「心を至し信楽して」という願文はどう理解すればいいのか。親鸞はこう言います、「この至心信楽は、すなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽也」と。われらに至心信楽など望むべくもないから、如来が「十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる」のだと言うのです。
 「こういう誓願があります」というだけでは、衆生がそれを「ふたごころなくふかく信じてうたがはざる」ことを期待できないから、「わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめ」るということです。誓願を与えるだけでなく、それに対する至心信楽をも与えようと。さてしかし「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚を取らじ」をどう読めばそんな理解が出てくるのでしょう。
 この文を素直に読めば、「十方の衆生が、真実のこころで信楽し、わが浄土に往生したいと思って、たとえ十回でも念仏すれば、みなわが浄土へ迎えとりましょう。そうでなければ仏になりますまい」としか読めません。十方の衆生をみなわが浄土へ迎えよう、但し三つの条件がある、一つ目は「真実のこころで信楽すること」、二つ目は「わが浄土へ往生したいと思うこと」、三つ目は「たとえ十回でも念仏すること」、この三つを満たせば例外なく往生させよう、と。
 つまり至心信楽は往生浄土のための条件として十方衆生に「課されている(ドイツ語でaufgegeben)」のであり、至心信楽が往生浄土とともに「与えられている(gegeben)」とは書かれていないように思われます。たとえば善導は第18願をこう読んでいました、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わがくにに生ぜんと願じてわが名字を称すること、しも十声にいたるまで、わが願力に乗じて、もし生ぜずといはば正覚をとらじ」と(『観念法門』)。この読みでは至心信楽が略されていますが、欲生我国と乃至十念の二つが衆生に「課されている」ように思われます。

タグ:親鸞を読む
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