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「課されている」と「与えられている」 [はじめての『尊号真像銘文』(その5)]

(5)「課されている」と「与えられている」

 どうして親鸞のような読みが可能でしょうか。そこであらためてどんなふうにして四十八願がたてられたのかをふり返ってみますと、そこに登場するのは法蔵菩薩とその師である世自在王仏です。四十八の誓願は法蔵菩薩が十方衆生に向かってたてているのではなく、法蔵菩薩は世自在王仏に対して誓っているのです。もしも「たとひわれ仏を得たらんに云々」と誓っている相手が十方衆生でしたら、「あなた方がこころからわたしを信じて、わたしの国に生まれたいと願い、十回でも念仏しなさい、そうすれば、みなわたしの国に迎えとりましょう」と言っていることになります。浄土往生の条件として至心信楽と欲生我国と乃至十念が「課されている」ということです。
 しかしそうではなく、法蔵菩薩は世自在王仏に向かって十方の衆生をわが国に往生させたいと誓願しているのです。そういう前提でもういちど第18願を読んでみますと、このように読めないでしょうか、「わたしは、十方の衆生が、わたしをこころから信じて、わたしの国に往生したいと思い、たとえ十回でも念仏するようにさせたいと思います。そうしてわたしの国に往生できないようでしたら、わたしは仏になりますまい」と。至心信楽も欲生我国も乃至十念は往生浄土の条件ではなく、それらがセットとして十方衆生に「与えられている」ということです。
 至心信楽は「課されている」のか、それとも「与えられている」のか。この二つがどう違うかを考えてみましょう。
 前者は「あなたは弥陀の本願を信じますか。信じれば救われます」ということで、信じるか、信じないかがこちらに委ねられています。普通の「信じる」はそういうことでしょう。あることに「信」というスタンプを押すか、押さないかはわれらに委ねられています。ところが後者は「あなたは弥陀の本願を信じるべくして信じ、救われるべくして救われます」ということです。「信」というスタンプはわれらが押すのではなく、如来が押すのです、「あなたをかならず救いましょう」と。

タグ:親鸞を読む
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