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プラサーダ [はじめての『尊号真像銘文』(その6)]

(6)プラサーダ

 「信」というスタンプをこちらが押すのではなく、むこうから押されるということ、これが「賜りたる信心」ということです。さてしかしここで深刻な疑問が浮かび上がります。十方衆生が阿弥陀仏を信じるべくして信じ、救われるべくして救われるとしますと、どうして「わたしは弥陀の本願なんて信じていません」という人がいるのか。みんな弥陀の本願を信じ、みんな救われているはずではないか、という疑問です。やはり信じるか信じないかはこちらに委ねられているのではないか。
 しかし、「わたしは弥陀の本願なんて信じていません」という人にはこう答えましょう、「あなたはまだ弥陀の本願に気づいていないだけです」と。
 先ほど述べましたように、弥陀の本願を「信じる」と言いますと、弥陀の本願にわれらが「信」というしるしをつけるというニュアンスがあります。それが普通の「信じる」です。しかし弥陀の本願を「信じる」というときはその「信じる」ではありません。われらが弥陀の本願に何かをプラスするのではなく、むしろわれらから何かがマイナスされて、そこに弥陀の本願がうかび上がるのです。むかしから弥陀の本願はあったのですが、何かに邪魔されてそれに気づかなかった。ところがあるときふとその障害物が取り払われ、はじめて弥陀の本願があることに気づくのです。
 これまで繰り返し述べてきましたように、第18願で「信楽」と訳されていることばはサンスクリットで「プラサーダ」といい、もとは「濁りが澄む」という意味です。これまでこころが濁っていて、そこに弥陀の本願があることに気づかなかったのですが、あるとき突然濁りが澄んで、もうとっくの昔から弥陀の本願が与えられていたことに思い至るということです。
 先ほど「与えられている」をドイツ語で“gegeben(gebenの過去分詞)”と表記しましたが、その“geben(与える‐英語のgive‐)”をつかい“es gibt(それは与える‐esは英語のit‐)”で、何かが「存在する」という意味になります。そこからしますと、何かが「ある」ということは「与えられてある」ということです。弥陀の本願が「与えられてある」ことに「気づく」、これが弥陀の本願を信じるということです。

タグ:親鸞を読む
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