SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その7) ブログトップ

招喚の勅命 [はじめての『尊号真像銘文』(その7)]

(7)招喚の勅命

 「この至心信楽は、すなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽也」ということについて見てきました。信楽というのは、われらが本願に「信」というスタンプを押すことではなく(これが「凡夫自力のこころ」です)、如来から本願を「信楽すべしとすすめ」られていることにふと気づくことです。そして欲生についても親鸞は「欲生我国といふは、他力の至心信楽のこころをもて安楽浄土にむまれむとおもへと也」と理解します。信楽が如来から「信楽すべしとすすめ」られているように、欲生も「安楽浄土へむまれむとおもへ」と如来がわれらに命じたまうということです。「与えられている」ということは「命じられている」ことに他なりません。
 親鸞の印象的な言い回しに「招喚の勅命」というのがあり、彼は『教行信証』においてこのことばを二度つかっています。
 一つは「行巻」のいわゆる六字釈(「南無阿弥陀仏」の六字の解釈)のところで、「ここをもて帰命は本願招喚の勅命なり」と言っています。帰命といいますと、われらが如来の命に従うことと受け取るのが自然ですが、親鸞は如来がわれらに「帰っておいで」と呼びかけているのだとするのです。われらから如来へのベクトルを如来からわれらへのベクトルに逆転させているのです。そしてもう一つが「信巻」のいわゆる三心釈(第18願の至心・信楽・欲生の三心についての解釈)のところで、「つぎに欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふ勅命なり」と言います。
 欲生も普通はわれらが浄土へ往生したいと思うことですが、親鸞は如来がわれらに「帰っておいで」と命じているのだと言うのです。われらが「浄土へ帰りたい」と願うよりも前に、如来から「浄土へ帰っておいで」と願われているということ。「帰っておいで」と願われているから「帰りたい」と願うことができるということです。問題は「帰っておいで」という招喚の勅命に気づくかどうかで、こころの濁りが澄んで招喚の勅命が聞こえてきたら、そこにはすでに救いがあります。しかし、それに気づかなければ招喚の勅命なんてどこにもありはしません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その7) ブログトップ