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本文2 [はじめての『尊号真像銘文』(その8)]

(8)本文2

 本文1のつづきで、第18願の後半部分になります。

 「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数(へんじゅ)の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。「若不生者不取正覚(にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく)」といふは、若不生者は、もし生れずはといふみことなり。不取正覚は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころは、すなわち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは、仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。この本願のやうは、『唯信鈔』によくよくみえたり。唯信と申すは、すなわちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり。「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひぼうしょうぼう)」といふは、唯除といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせむとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

 「乃至十念」と言いますのは、如来の誓いの名号を称えることをすすめるのに、称名の回数やその時期にとくに定めがないことを知らせようとして、乃至ということばを十念に添えて言っておいでになるのです。如来からお誓いを賜るのは平生の時であって、臨終の称念を待つべきではありません。ただ如来の至心信楽を深く頼むべきです。この真実の信心を得る時、摂取不捨の光の中におさめとられますので、必ず仏となることができる正定聚の位に定まるのです。「若不生者不取正覚」と言いますのは、若不生者は、もし生まれなかったらということです。不取正覚とは、仏にならないとお誓いになっていることばです。それは、至心信楽を得た人がもしわたしの浄土に生まれなかったら仏とならないとお誓いになっていることばです。この本願については『唯信鈔』に詳しく出ています。唯信と言いますのは、この真実の信楽をひとすじにとる心を指します。「唯除五逆誹謗正法」と言いますのは、唯除とは、「ただのぞく」ということばです。五逆の罪人をきらい、仏法を誹謗することの重い咎を知らせようとしているのです。この二つの罪の重いことを示して、十方の一切の衆生がみなもれず往生できると言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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